【読書】補完する癖_アドラー心理学「嫌われる勇気」
いろいろな方の書評でちょくちょく見かけていたので、読んで見たかった一冊。
読んでみて、このところぼやっと考えていた「人は補完する生き物」という仮説から、なんとなく輪郭が浮かんだ感じがしました。
◼︎嫌われる勇気
アドラー心理学の入門編ということで、青年と哲学者の対談で書かれています。
会話では哲学者の問いかけにより、青年が気がついたり自身で答えを導き出してはっとしたりしていますよ。
読んで見につまされた若い方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この本を手に取るまえにもやっと考えていたのが
(1)出来事という「事実」に「要素」を追加するのは人間だが、なぜその「要素」が必要なのか
(2)人はなぜ相手の「感情」を仮定した上で持論を語るのか
ということでした。
もやっとしすぎ。
(1)に関しては、別に必要はないのに、何か意味づけをする理由がなぜ生じるのか。とくにスピリチュアル系の人たちは一台前に走る車のナンバーすら運命とするので、そんな厨二病じみた意味づけは極端としても、なぜ、つい意味があると考えるのか、というところに興味が出てきていたのと、(2)に関しては最近殊に女子、その中でも主婦だったり主婦的思考の強い女性と会話していると、どうしても「相手がどう思っている、それに対して私はこう思っている」ということを強調されるのだけど、いや待てそもそもの相手の感情については必要なくね?という気持ちになることが多くて、そもそもが必要ないのになんでそこに対しての自分の感情が必要なのかがさっぱりわからず、聞かされ続ける身としてはどーにか終わらんかな、とうわのそらで右から左へ聞き流すくらいしかできず悶々としていた問なのでした。
ちょうどこの本の前に
◼︎99人の転機
「凸凹した出来事に物語をつけて人生を意味のあるものにしたいのではないか」と占いが求められる理由について述べられていたので、なんとなく「補完する」という必要があるんだな、それは物語にすることで人は理解するんだな、と気がついたわけなんですが
「今をいきること」人生は刹那とくるくるダンスするようなもの
という一節から、
事実は事実のみである、それを意味づけているのは自分自身に他ならない
という当たり前の結論が導きだされ、それを意味づけるのはただ
「今」には意味がない=自分の人生は無意味
という事実を知ることの恐怖から、いろんなものを引っ張ってきたりごねごねくっつけたり間引いたりはみ出させたりしながら無理やりな物語をそれなりな感じに作り上げて、自分を納得させてるんだなあ、という結論に至りました。
なるほどなあ。