よみかき勘定

読んだり見たり行ったり来たりしたことを綴ります

【よむよむ】教育に関する読書メモ

以前紹介した書籍の繋がりがなんとなく見えてきたので一つにまとめて紹介します。

・なぜヒトは学ぶのか/安藤寿康 著(講談社現代新書

・ケーキの切れない非行少年たち/宮口幸治 著(新潮新書

・教育格差  階層・地域・学歴/松岡亮二(ちくま新書

 

「ケーキの切れない非行少年たち」が散々売れてしまったので、なんだか非行少年だけが特別なフレームにいるかのような扱いにはなんだか違和感もあるのですが、一般的に「認識の違い」によってその行動の延長線上にある結果に犯罪が生まれてしまう、ということが一般的に認知された、ということはいいことだよなと思ってます(狭量な認識で決めつけにされなければが前提ですけども)

そこから「なぜヒトは学ぶのか」、著者の安藤先生はもともと双子の遺伝子研究をされていらっしゃる方で、そこからその双子の成長の環境によってどのように差異が出てくるのか、というデータから、後天的条件についてを導き出している、という内容です。

たまたま出口治明先生のYoutubeみて「教育格差」の書籍を知り、データによるエビデンスから成るその本をめくってみた時て、またふとこの2冊を思い出したのでした。

Youtubeでこの動画を見て、なんとなくこの3冊がつながったというか。

みなさんご存知「ビリギャル」の著者、坪田塾の坪田信貴先生です。

この動画の中で坪田先生も「子供にやる気スイッチなんてなくて、全てトレーニングで私たちは出来上がってきている」「メンタルが9割なのに、私たちはそのトレーニングをしてきていない」と指摘しています。

確かに、捉え方、考え方、思考の組み立て方、ある意味「クリティカル・シンキング」のようなものはあっても、それらが学校教育で組み込まれることはないし、道徳の授業なんて教育サイドの感情の押し付けだったりしてますます子供たちをぎゅうぎゅうにさせてしまっている印象もあり。

 

「ふつう」という曖昧な定義の中で、家族における「ふつう」、社会における「ふつう」、地域における「ふつう」、学校社会における「ふつう」、クラス内の勢力における「ふつう」。それらの曖昧な「ふつう」の中で「ふつう」に振る舞うことができる賢い子供たちは、自分が「ふつう」のエリアにいる、という自身によって成り立っているとおもうので、「ふつう」のエリアにいないのでは、と物理的に考えさせれられる子供たち、例えばSwitchを持ってなくて遊びに入れないとか、他の子が塾に通っているけど自分は通わせてもらえないとか、よくよくかんがえればすげえどうでもいいことがその社会の中の「ふつう」基準に満たされなくて逃げ場がないなら、そりゃどんどん潰れますよね、という暗澹たる気持ちになってきております。無視できればどんなにいいか。

 

大人になるとこれが「常識」と言い換えられるのだと感じますが、その「ふつう」をスルーできたり、前の前に来ても意識しなくていいようなメンタルを作れる社会になるのっていつなんですかね。今の日本では実現する気がしない...

 

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